今回は占いというより、不思議な運命やご縁の話です。
東海林太郎 さんと聞いてすぐ分かる人はどれくらいいらっしゃいますでしょうか?
昭和の大歌手で直立不動がトレードマークのこのお方です。

国境の町、赤城の子守唄、名月赤城山、野崎小唄、お駒恋姿、むらさき小唄、椰子の実…etc.とたくさんの今なお語り継がれる歌があります。
その東海林太郎さんは秋田の出身なのですが、京阪神で生まれ育った私と繋がる不思議なご縁の話をしたいと思います。
東海林和樹氏について
東海林和樹氏、というのはこの東海林太郎さんのご長男です。
母や私、多くの生徒たちにとっては大先生でいらっしゃるのでここからは先生と記します。
この東海林和樹先生が、すべての始まりでキーマンとなります。
もともと東海林太郎さんは秋田出身ですが、東海林和樹先生は東京や鎌倉などで生まれ育ちました。
父親である東海林太郎さんは母校である早稲田大学を勧めたそうですが、逆にそれを振り切って、旧制弘前高等学校に進学しました。
そこで大親友になる 君島善次郎 先生と学友になります。まずここに①番目の縁があります。
東海林和樹先生のお人柄と歌の道に進まれるまで
旧制 弘前高等学校を卒業後、東海林和樹先生は京都帝国大学に進学します。
余談ですが、東海林和樹先生は人から「先生は京大ですよね?」と聞かれると、「違います。僕が出たのは京都帝国大学です。今の京都大学とは別物です。」と理屈を並べていたのを思い出します(笑)
その先生もご多分に漏れず京都帝国大学在学中に赤紙が実家に来て、東京から父親の東海林太郎さんが汽車に乗って東京から京都まで赤紙を届けにきたという当時の壮絶な話があります。
本籍地が父親の出身地である秋田だった先生は、秋田の連隊に着任します。しかし物の無い時代、食べる物が十分でなく、栄養失調で仙台の陸軍病院に入れられたそうです。
その間に自分が所属していた連隊は南方に出撃命令が出て、米軍の潜水艦攻撃により戻ってくることは無かったのです。
栄養失調で仙台の陸軍病院に行くハメになったことで助かったのが②番目の縁です。
そして再び秋田に戻り、次に自分が所属した部隊も出撃命令を待つばかり。
さすがに先生もこの時は「出撃命令が出たら僕も終わりだな。」と思っていたそうですが、そんな昭和20年8月15日、全員集められて上官たちと終戦の玉音放送を聞いて「助かった…」と思ったとのちに語っておられました。
ここでまた余談ですが、敗戦を受け入れられない上官たちや兵士たちは「最後の一兵まで戦うぞ!」と泣きながら気勢を上げていて、上官が「●●!お前はどうする?」と1人ずつ聞いたそうで、名指しされた兵士たちも「私も最後まで戦いますっ!」と判で押した様な返事ばかり。
内心「冗談じゃないよ、せっかく助かったと思ってんのにさ…」と思っていたところ、上官に
「東海林、お前はどうする?」
と名指しされた東海林和樹先生。
さすが京都帝国大学を卒業したような人は頭がいいんですね、先生がすかさず
「はい、私は天皇陛下のご命令に従いますっ!」(キリッ
と答えたその瞬間、全員一斉にシーンとなったということ…。
天皇陛下のご命令って「耐え難きを耐え忍び難きを忍びなさい」ですからね。しかもこう言われたらさすがの上官も怒鳴る訳にはいきません。
静かに「…そうか、分かった。」と言わしめたのです。
こんな思い出話をし始めると尽きることがないのですが、終戦により京都に戻った先生は、卒業後に色々経てドイツ歌曲の道を志しました。
戦前の日本の教育水準は驚くレベルで、東海林和樹先生は仙台の陸軍病院の病床にいてこのドイツ語の歌を聞いて、スラスラ歌詞の意味が分かったというのだから驚きです。
この歌は東海林和樹先生が生前お気に入りだった歌で、亡くなられてから心斎橋の日航ホテルでお別れの会をした際に、先生から歌を教わった有志のメンバーが日本語の歌詞で歌ったのがついこの間のことの様です。
『ブーゲンビリアの花咲けど』の誕生
上の方で記した大親友の君島善次郎先生は東京でお医者さんをなさっていました。
この君島善次郎先生のお兄様は日本陸軍の大尉でいらっしゃったのですが、戦時中サイパン島の守備隊にて従軍中、米軍と激戦の末全滅、お兄様も亡くなってしまわれました。
そのお兄様を偲んで、君島善次郎 先生は『血の落日』というノンフィクション記を著しました。
その際に作詞した君島善次郎先生は、親友の東海林和樹先生に
「この歌は是非東海林君に託したいから頼む。」
と仰ったと言います。
そう伝えられた東海林和樹先生、あまり御自身の歌を流行歌のようにすることを好まなかったのですが、
「君島君に頼まれたんじゃ断れない。」
ということで、LPレコードを出版し、その一番最後に収録した唯一のご自身のオリジナル曲
「ブーゲンビリアの花咲けど」
が生まれたのです。

作曲はNHKののど自慢で キンコンカンコン キンコンカンコンの鐘の判定をなさっていた秋山気晴先生でした。
東海林和樹先生との出逢い~大阪難波での想い出~
この頃東海林和樹先生は大阪の難波で音楽教室を主宰されていました。
私の母が東海林和樹先生の弟子にして頂いていた関係もあって、ちょくちょく難波の教室に出入りしていた私は、生前ずいぶん東海林和樹先生に可愛がって頂きました。これが③番目の縁です。
東海林和樹先生との思い出はもう数えきれないほどありますが、先生のお人柄を思い起こさせるエピソードとして少し…。
その昔、俳優の藤田まことさんが生前何度も演じた「東海林太郎物語」という舞台演劇がありました。
私は大阪・梅田で開演初日に先生にお招き頂いて東海林太郎物語を観劇しました。
何か先生から色々聞き覚えのある実際の御父上像と受ける印象が違うな…と思っていました。
私:先生、あの●●のくだりですが、何かお聞きした話と異なる印象でしたね。
先生:そらそうでしょう。あんなの嘘だから。
私:え?でも先生、事前の打ち合わせでOK出したのでは…
先生:ああいうものはね、大衆が喜んでくれたらそれでいいんです。事実かどうかなんてどうでもいいんです。
●●のあたりも全然事実とは異なります。親父(東海林太郎さん)が生きてたら怒るでしょうね(笑)
とまあ、こんな話もずいぶん聞かせて頂きました。
『ブーゲンビリアの花咲けど』を世に残すために
その「ブーゲンビリアの花咲けど」ですが、出た頃にレコード会社から「カラオケに入れましょうよ!」と言われていたのを、先生は歌謡曲的に歌が流行るのを好まなかったので、固辞していたのです。
しかし亡くなる前に東海林和樹先生は私の母にこの歌や教室、色々なことは全部あげるから後は頼んだ、と託したのですから、「ブーゲンビリアの花咲けど」という歌は後世に残したかったのでしょう。
私の母はそのあたりの先生の真意や本心みたいな部分を勘違いしていたのか、無頓着だったのか、ブーゲンビリアの花咲けどに関して特別なことは何もしませんでした。
しかしこれがまた後の縁に繋がるのだから世の中分かりません。母が特に何もしなかった、というのが④番目の縁です。
そしてブーゲンビリアの花咲けどを引き継いだ私は、若い頃に東海林和樹先生に可愛がって頂いたことを思い出しつつ、この歌を消滅させたくないなぁ、何とか後世に残したいなぁ、と思っていました。
しかし作曲した秋山気晴先生とのパイプか無いと、カラオケに入れるにしても、作曲の著作権という部分で勝手に進められない訳です。
秋田へ東海林太郎音楽館を訪ねて
半ば諦めていた私に転機が訪れたのが、2023年でした。
秋田市の千秋公園の入口付近に秋田出身である昭和の大歌手・東海林太郎さんの銅像を建立しようという計画が持ち上がり、秋田市にある東海林太郎顕彰会や東海林太郎音楽館、関係各方面の方々のご尽力があって、立派な銅像と銘板が出来上がっていたのです。
その際に東海林和樹先生のご縁があって少しばかりご協力させて頂いたことから、銘板に私の名前も記されています。
そのことがあったので、何とか一度秋田に東海林太郎さんの銅像を見に行きたいと思っていたのが実現したのが2023.11月です。
この時に奇跡の様に東海林太郎音楽館の佐々木三知夫館長にお会いすることが出来ました。
手紙や電話などのやり取りはありましたが、お会い出来たのは初めてでこれが⑤番目の縁。
そこから2025年に秋田市での東海林太郎さんの命日のイベントにお招き頂き、その際にお会い出来た東海林太郎顕彰会の涌井良介理事長の人脈で、ブーゲンビリアの花咲けどの作曲者である秋山気晴先生のご了解を得られたのが⑥番目の縁。
これら全てが絹糸の如く繋がって、カラオケに入れることが出来る下地が出来たのです。
もうね、他にも書いてないことがたくさんあるのですが、どの縁が噛み合わなくてもこのことは実現しませんでした。
こうして数十年の時を経て再びこの歌を皆様に届けられる日が来ました。
『ブーゲンビリアの花咲けど』
作詞 君島善次郎
作曲 秋山気晴
歌唱 東海林和樹
サイパン島で亡くなった方々
ご遺族の方々
何とかそうしたことを語り継ごうとしている方々
そうした方々に
『ブーゲンビリアの花咲けど』
を埋もれさせることなく、何とか引き継いでいきたい、知って頂きたい。
この思いを歌にした作詞の君島善次郎先生と、作曲の秋山気晴先生。
想いを伝えようと歌った東海林和樹先生。
そして経緯を全て把握してこの歌を今残せるのは、この世に1人自分だけなのです。
そして不思議な神がかった様なご縁が繋がり、多くの方々のご協力を頂いて、もうすぐカラオケ JOY SOUNDに入るところまできました。そして何よりも不思議なのは、この毎年語り継がれる終戦の月、8月にここまでたどり着けたことです。
奇跡というかご神恩なのか、何か目に見えない力が働いたのかは分かりませんが、多くの方々にブーゲンビリアの花咲けどを知って頂く再スタートラインに立てる状態になったという訳です。
何本もの糸が紡いだ奇跡
皆さん、決まった未来なんかありませんよ。もう無理なんじゃないかと思ったことが、奇跡とも思えることが繋がって、実現出来ることもあるのです。
これを予見出来る占いも、霊視霊感もありませんでした。ま、誰にも見通せなかったことは私が一番よく知っています。
意志のあるところ、行動のあるところ、ご縁繋がるところに道は開けます。
未来予知や予言の当たり外れなんか、外れて当たり前だというくらいに考えておいていいでしょう。
でも、誠実に真面目に行動することにいわゆる「ご神徳の様な力」も働くのかもしれません。高額な鑑定料を取る霊能力商売でそんな力は働きませんし、占い師が何かを解決してくれる訳じゃありません。
この先
ブーゲンビリアの花咲けど
が1人でも多くの人に歌い継がれたら、それが私に出来る、東海林和樹先生や、ひいては東海林太郎さん、お世話になってきた秋田の方々にも繋がるご恩返しだと思っております。

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